お読みください
基本的に、「期待」ってことはとっても自分勝手なことだってo思っている。
期待が実現する、ってことは、「すべての物事が自分の思い通りにうまく行く」ってことで、そんなことはありえないってことぐらい、まともな大人なら理解できてしかるべきことだと思う。
だからうっかり期待しても「そんなことありえないし」と人は無意識のうちに調整して、セルフコントロールをして生きていると思う。
月華も、当たり前ながらそう。そして、それはどんな相手に対しても「期待は自分が勝手に持つもの、だから裏切られて当たり前」と思い続けてきた。
そんなだから、執事との付き合いのはじめには自分に色々枷をつけてきた。期待を裏切られた、などどいう怒りをためないように、男女の普通の気持ちを持ち込まない、など。そうすればそもそも期待をすること自体減るだろうし、期待を裏切られた怒りも少なくなるのではと。
そう考えて最初の頃は、大きくなる自分の気持ちを必死に押さえ込みはぐらかし、期待を持ってしまってもなかったことと処理し続けた。もちろん期待についても語らなかった。
けれど…やはり、「期待が裏切られたこと」についてのひっかかりまではなかったこと、にはどう努力してもできなかったのです。引っかかった違和感は気がつかないうちに少しずつ心の底に澱のようにたまり始め、やっぱりあるときどうしても、その澱をなかったことにはできなくなり、爆発してしまった。
このブログの初めのころの様々なトラブルは、この時期のこと。
期待を裏切られた澱を無視できずに爆発して…そのときに、「期待は外れたら怒りに変わって当たり前」という文章に行き当たって、ものすごく救われた気がした。期待に破裂したことに心底罪悪感を持っていた自分には、地獄にたらされた蜘蛛の糸のように思えたのだ。
期待をはずされたら、怒ってもいいんだ。
それを納得して素直に「期待をはずされた怒り」を表明してから、執事との長い話し合いを経て、自分の思考の根本も修正された。
期待は常にかなえられない。もっていたって意味はないことが多い。
それは、一般的には真実。
でも、近い関係においては、期待は持ってもいいし外されたら怒ってもいいんだと。ただし、怒ってもいいのは、「期待持ってますよ」と表明したときに限るけれど、と。
簡単なことだったんだ。
その座に胡坐をかいてはいけないけれど、自分は執事にとって特別な存在なのだから、期待の持ち方を「そのほかの人々」と同じにする必要なんてないんだ。文にしてしまえば当たり前すぎること、だけど、期待しちゃいけない必要以上に感情を出しちゃいけない、と固まっていたわたしにはコロンブスの卵的発見だった。
それ以来、毎日のメールでは嫌なこととか期待しちゃうこととかかなり素直に書くようにし始めた。それでも…やっぱり「そこまで書かないとわかってもらえないって変」みたいな微妙なことがでてくる。
これが毎日一緒に暮らす夫婦なら、その空気感とか表情とかそういうもので伝わっていくものだろうけれど、毎日のつながりがモニター越しの文字だけだと、それはとても難しい。
イチイチ、メールとして「これはこういうことだからこうして欲しいと思う」と言っていられるかい、ということがある。約束するほどでもないけれど、暗黙の了解として「普通は、そうだよね」って思うこと…そうだな、何年経っても結婚記念日はちゃんとお祝いしようね、と言っていたのに、十数年たって夫はすっかり忘れて同僚と飲みに行ってしまった!とか、そんな感じのこと。
いちいちあらかじめ「今日は13回目の結婚記念日よ、早く帰ってきてね♪」なーんてもう新婚でもないから言えないし実際言ったら面倒な妻になっちゃうし、だから言わないけど早く帰ってきてくれると期待するような。
こういう「期待」は、あらかじめ期待表明ができないだけに性質が悪い。
考えた末に、月華はブログの利用を思いついた。
もともと、メールじゃうまく主従の「主」としての物言いができなくなって苦し紛れにはじめたブログ。こういう期待とか、今現在思うこととか、もう素直に書き綴ってしまえばいいじゃんか、と。
読んでどうするかは執事の自由。でも、月華はちゃんと期待表明をしている。だから、がっかりしたら怒ることができる。
そういえば、一年ぐらい?前に雅さんから「すごく素直なブログだ」(意訳、間違えていたらごめんなさい)というコメントをもらって、たしかそれについての説明もしたけれど、まぁ同じようなことです。
最近は、ここにも書けないようなことが出てきて、それがやっぱりたまって大爆発になってきたりもするけれど、こればっかりはしょうがないことですね。
月華の結論は、やっぱり他の人に比べたらずっと特別な存在なんだから、やっぱり期待は持っていい。というか、持たないって「他の人と同じ親しさレベル」って意味にもなっちゃうからちょっとありえないような気がする。で、持った期待はストレートに言うなり、ここでにおわすなり必ず表明する。
その後、執事がどうするかは…執事が決めることだけれども、その執事の行動を見て喜んだりがっかりしたり、は二人のコミュニケーションで、良いも悪いでもない。
長い長い時間をかけて、ようやくここまでたどり着いたなーって感じです。もっと後になったらまたどういうふうになってるんだろう。
今はそれがちょっと楽しみです。
期待が実現する、ってことは、「すべての物事が自分の思い通りにうまく行く」ってことで、そんなことはありえないってことぐらい、まともな大人なら理解できてしかるべきことだと思う。
だからうっかり期待しても「そんなことありえないし」と人は無意識のうちに調整して、セルフコントロールをして生きていると思う。
月華も、当たり前ながらそう。そして、それはどんな相手に対しても「期待は自分が勝手に持つもの、だから裏切られて当たり前」と思い続けてきた。
そんなだから、執事との付き合いのはじめには自分に色々枷をつけてきた。期待を裏切られた、などどいう怒りをためないように、男女の普通の気持ちを持ち込まない、など。そうすればそもそも期待をすること自体減るだろうし、期待を裏切られた怒りも少なくなるのではと。
そう考えて最初の頃は、大きくなる自分の気持ちを必死に押さえ込みはぐらかし、期待を持ってしまってもなかったことと処理し続けた。もちろん期待についても語らなかった。
けれど…やはり、「期待が裏切られたこと」についてのひっかかりまではなかったこと、にはどう努力してもできなかったのです。引っかかった違和感は気がつかないうちに少しずつ心の底に澱のようにたまり始め、やっぱりあるときどうしても、その澱をなかったことにはできなくなり、爆発してしまった。
このブログの初めのころの様々なトラブルは、この時期のこと。
期待を裏切られた澱を無視できずに爆発して…そのときに、「期待は外れたら怒りに変わって当たり前」という文章に行き当たって、ものすごく救われた気がした。期待に破裂したことに心底罪悪感を持っていた自分には、地獄にたらされた蜘蛛の糸のように思えたのだ。
期待をはずされたら、怒ってもいいんだ。
それを納得して素直に「期待をはずされた怒り」を表明してから、執事との長い話し合いを経て、自分の思考の根本も修正された。
期待は常にかなえられない。もっていたって意味はないことが多い。
それは、一般的には真実。
でも、近い関係においては、期待は持ってもいいし外されたら怒ってもいいんだと。ただし、怒ってもいいのは、「期待持ってますよ」と表明したときに限るけれど、と。
簡単なことだったんだ。
その座に胡坐をかいてはいけないけれど、自分は執事にとって特別な存在なのだから、期待の持ち方を「そのほかの人々」と同じにする必要なんてないんだ。文にしてしまえば当たり前すぎること、だけど、期待しちゃいけない必要以上に感情を出しちゃいけない、と固まっていたわたしにはコロンブスの卵的発見だった。
それ以来、毎日のメールでは嫌なこととか期待しちゃうこととかかなり素直に書くようにし始めた。それでも…やっぱり「そこまで書かないとわかってもらえないって変」みたいな微妙なことがでてくる。
これが毎日一緒に暮らす夫婦なら、その空気感とか表情とかそういうもので伝わっていくものだろうけれど、毎日のつながりがモニター越しの文字だけだと、それはとても難しい。
イチイチ、メールとして「これはこういうことだからこうして欲しいと思う」と言っていられるかい、ということがある。約束するほどでもないけれど、暗黙の了解として「普通は、そうだよね」って思うこと…そうだな、何年経っても結婚記念日はちゃんとお祝いしようね、と言っていたのに、十数年たって夫はすっかり忘れて同僚と飲みに行ってしまった!とか、そんな感じのこと。
いちいちあらかじめ「今日は13回目の結婚記念日よ、早く帰ってきてね♪」なーんてもう新婚でもないから言えないし実際言ったら面倒な妻になっちゃうし、だから言わないけど早く帰ってきてくれると期待するような。
こういう「期待」は、あらかじめ期待表明ができないだけに性質が悪い。
考えた末に、月華はブログの利用を思いついた。
もともと、メールじゃうまく主従の「主」としての物言いができなくなって苦し紛れにはじめたブログ。こういう期待とか、今現在思うこととか、もう素直に書き綴ってしまえばいいじゃんか、と。
読んでどうするかは執事の自由。でも、月華はちゃんと期待表明をしている。だから、がっかりしたら怒ることができる。
そういえば、一年ぐらい?前に雅さんから「すごく素直なブログだ」(意訳、間違えていたらごめんなさい)というコメントをもらって、たしかそれについての説明もしたけれど、まぁ同じようなことです。
最近は、ここにも書けないようなことが出てきて、それがやっぱりたまって大爆発になってきたりもするけれど、こればっかりはしょうがないことですね。
月華の結論は、やっぱり他の人に比べたらずっと特別な存在なんだから、やっぱり期待は持っていい。というか、持たないって「他の人と同じ親しさレベル」って意味にもなっちゃうからちょっとありえないような気がする。で、持った期待はストレートに言うなり、ここでにおわすなり必ず表明する。
その後、執事がどうするかは…執事が決めることだけれども、その執事の行動を見て喜んだりがっかりしたり、は二人のコミュニケーションで、良いも悪いでもない。
長い長い時間をかけて、ようやくここまでたどり着いたなーって感じです。もっと後になったらまたどういうふうになってるんだろう。
今はそれがちょっと楽しみです。
読んでくださってありがとうございます。
ご意見がありましたらどうぞ。
ご意見がありましたらどうぞ。
さりげない文中リンク、ありがとうございます^^
>長い長い時間をかけて、ようやくここまでたどり着いたなーって感じです。
それは、とてもよくわかります。
あたしも、同じようなことを思うから・・・。
葉月さんの日記に共感することもあって、それは内容ではなく「書き方」だったりします。
こればっかりはブログをやって、読者に晒されてみないとわからないことだろうと、思ったりすることで・・あたしもよく主様を庇うような書き方をしていたなぁ・・と思い返してみたり。
それに対して、月華さんは素直に書いてるなぁ・・って、感じてたんです。
>こういう「期待」は、あらかじめ期待表明ができないだけに性質が悪い。
これ、本当にそうですよね。
同じ意味で、あたしもブログを利用してます。
それと、もうひとつ・・。
まず、主はメールを読んでくれないんですよ(笑)
だから、逢ったときのこととか、長々と書いても絶対読んでくれない。
けど、ブログだと、読んでくれてるみたいなんです。少なくともコメントは全部読んでくださってまして、なにか考えてくださったりもするみたい。
色々な意味のアピールで、最近は使ってます。
ラブレターを書いたつもりで、文句と思われるのだけは、気をつけないと・・・と思っていますが(笑)
(でもでも、あたしも随分素直になったでしょう!?笑)
>長い長い時間をかけて、ようやくここまでたどり着いたなーって感じです。
それは、とてもよくわかります。
あたしも、同じようなことを思うから・・・。
葉月さんの日記に共感することもあって、それは内容ではなく「書き方」だったりします。
こればっかりはブログをやって、読者に晒されてみないとわからないことだろうと、思ったりすることで・・あたしもよく主様を庇うような書き方をしていたなぁ・・と思い返してみたり。
それに対して、月華さんは素直に書いてるなぁ・・って、感じてたんです。
>こういう「期待」は、あらかじめ期待表明ができないだけに性質が悪い。
これ、本当にそうですよね。
同じ意味で、あたしもブログを利用してます。
それと、もうひとつ・・。
まず、主はメールを読んでくれないんですよ(笑)
だから、逢ったときのこととか、長々と書いても絶対読んでくれない。
けど、ブログだと、読んでくれてるみたいなんです。少なくともコメントは全部読んでくださってまして、なにか考えてくださったりもするみたい。
色々な意味のアピールで、最近は使ってます。
ラブレターを書いたつもりで、文句と思われるのだけは、気をつけないと・・・と思っていますが(笑)
(でもでも、あたしも随分素直になったでしょう!?笑)
わー、勝手な文中リンクすいませんでした(見つかってしまいました^^)
月華がおそれず素直に書けるのは、やっぱり立ち位置の違いもあるのかもしれませんね。
仮に執事の愚痴を言ったとしても、基本、主は「自らの意志でそういうややこしい従を従えてる」と思われがちで、「好きにすれば?」となりやすいのかもしれません。
でも、従の立場の方に対しては、人はなんとなく「ある事情で仕方なく」と思いがちで(それはとても失礼な話だと思うのですが、これ言い出したら別の話になるから置いておいて)、だからちょっとでも辛い苦しいっていう愚痴がでてくると、「辞めればいいじゃないそんな関係」という結論に達しやすいのかも…と思いました。
雅さんのコメントを読んで漠然と感じたんですけどね。
月華はSで主側の人間なので、たとえば雅さんが「怖い」とおっしゃったり葉月さんが「やな奴」とおっしゃったりしているその裏側に、愛を感じます。そうおっしゃりながらもブログを綴る姿がとてもとても愛しいと思う変態です(←開き直り)。
文句と思われない程度に、怖いけど愛しているというエントリーをまた書いてくださいね。
(はい、怖いと書かれるようになって、そう思うようになりました<素直)
月華がおそれず素直に書けるのは、やっぱり立ち位置の違いもあるのかもしれませんね。
仮に執事の愚痴を言ったとしても、基本、主は「自らの意志でそういうややこしい従を従えてる」と思われがちで、「好きにすれば?」となりやすいのかもしれません。
でも、従の立場の方に対しては、人はなんとなく「ある事情で仕方なく」と思いがちで(それはとても失礼な話だと思うのですが、これ言い出したら別の話になるから置いておいて)、だからちょっとでも辛い苦しいっていう愚痴がでてくると、「辞めればいいじゃないそんな関係」という結論に達しやすいのかも…と思いました。
雅さんのコメントを読んで漠然と感じたんですけどね。
月華はSで主側の人間なので、たとえば雅さんが「怖い」とおっしゃったり葉月さんが「やな奴」とおっしゃったりしているその裏側に、愛を感じます。そうおっしゃりながらもブログを綴る姿がとてもとても愛しいと思う変態です(←開き直り)。
文句と思われない程度に、怖いけど愛しているというエントリーをまた書いてくださいね。
(はい、怖いと書かれるようになって、そう思うようになりました<素直)
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