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執事の11日付けのブログのエントリーを読んで、呼応するエントリーを書きたいなと思いつつ考えがまとまらない。
(もちろん、ブログでの話とは別にちゃんと話を聞いていて、それについてはちゃんと応えているのだけれども。)
(もちろん、ブログでの話とは別にちゃんと話を聞いていて、それについてはちゃんと応えているのだけれども。)
人の評価、とは絶対なようであいまいなものだ、と思います。
一つの事象について全員が同じ評価を下すなんてことは無い。絶対、と言うことは世の中にはありえないことだけど、それでも絶対に近いぐらい、無いことだと言っていいと思う。
通常の(と思われる)見方で見てもブレが生じるのに、評価者にある一定の予見がある場合には、さらに評価結果にゆがみが生じます。そういうさまざまなことを考えると、同じ時期に正反対の評価を下されること、というのはままあることだと思います。
話はそれてしまうけれど、じつは月華にはとある障害があると医学的に濃厚に疑われています(と持って回った言い方をするのは、確定診断を受けてないから。もう自分自身で確定診断受ける必要が無いと思うぐらい、自力でその障害を克服していたから)。脳神経回路の障害で、外見からはまったく見えない上、月華の場合はむしろ好ましいほうに症状が出てしまったので、大変わかりにくい状態でした。好ましい方向に症状が出たとは言っても、悪影響が無いわけでは絶対無いので、二十歳を越えるまで「自己像の確定」に苦しみ続けました。
自分の中では一貫した行動しかとっていないはずなのに、正反対の評価を下されることなんて日常茶飯事。時と場合によって、同じ行動をしていてもまったく違う評価をされ、しかもそれについて一貫性が無いわけですから、自分はデキル子なのかデキナイ子のか、非常に毎日が不安定でした。
今にして思えば、客観的に考えれば自分の行動が一貫性無く突拍子無かったよな、と思うわけですが、自覚が無いときはそれがわかりません。
結局、大人になってからそういう障害というものが存在していたんだ、と知り、そこから急速にまともに近づいたわけです。もちろん、それまでにも分からないなりに適応してきたわけですが、微妙に分かっていないのでちょっととんちんかんな部分が残っていたはずです。
執事とは、そういうとんちんかんな部分を消すことにある程度成功してからの出会いですから、以前の月華がひどい評価を受けていたことを聞いても信じられないでしょね。実際、ちょっとそういう話をしたことがありますが、信じてもらえませんでしたし(笑)。
と、言いつつも、おそらくはまだ障害の悪影響が残っていた状態でも、執事は月華を主と選び慕ってくれたのではと思います。
なんかえらい自信過剰ぶりですが、そういうわけではありません。
仕事の評価、表向きは普通に振舞う技術、そういうものは執事や月華のパーソナリティのうちほんの数パーセント、つまり世渡りをする上で必要な仮面の部分のみだと思うのです。
執事のことは分かりませんが、少なくとも自分のことについてはよく分かります。外面上普通に振舞うことができて、普通の評価を得ているからといって、本質にある障害が治っているのでしょうか?答えはNoです。それはいやおうなく自分に突きつけられている事実です。表面は消えていても、本質には厳然として残っているのです。
こういう関係で、今までに書いてきたようなさまざまなトラブルを乗り越えている中では、いわゆる「世渡り部分」のみだけで付き合えるものではありません。本質を深くえぐるようなことをお互いにして、だからこそ傷ついたし救われたし、そういう付き合いの仕方をしてきたはずです。あの中で、執事はいやおう無く月華の障害部分に翻弄されたはずですので、それが嫌なら、今、執事という存在は居ないでしょう。
とんでもない月華の本質のとっちらかりっぷりを分かって今も居てくれるということは、表面が取り繕えていなくたって、結局はこうなるんだと、そう思えるのです。自信があるわけじゃないです。
月華が執事を執事だと思ったのは、表面的な評価の故ではありません。
何年にもわたって繰り返してきたやり取りの中でつかんだ「執事の本質というもの」、それに共鳴したからであって、究極のことを言えば、人がどう執事を評価するかなんて、執事を執事とすることにおいてはどうでもいいことなのです。
ただ、執事の本質が正しく世渡り部分の表面に投影されれば、本質にふさわしい高い評価を得るだろうな、と確信はしていますが、相手や状況などの条件にもよるので期待はしすぎていない、というのが妥当な説明だと思います。
月華は、常に一定しない評価に振り回されてきたせいで、普通の人に比べると自分に下される評価について鈍感だったんだな、と今回の件で気が付きました。
もっと早く、人の評価なんてどうでもよくて、月華にとっては執事の本質こそが一番大事なんだということを言っておかなければいけなかったなと反省しています。
一つの事象について全員が同じ評価を下すなんてことは無い。絶対、と言うことは世の中にはありえないことだけど、それでも絶対に近いぐらい、無いことだと言っていいと思う。
通常の(と思われる)見方で見てもブレが生じるのに、評価者にある一定の予見がある場合には、さらに評価結果にゆがみが生じます。そういうさまざまなことを考えると、同じ時期に正反対の評価を下されること、というのはままあることだと思います。
話はそれてしまうけれど、じつは月華にはとある障害があると医学的に濃厚に疑われています(と持って回った言い方をするのは、確定診断を受けてないから。もう自分自身で確定診断受ける必要が無いと思うぐらい、自力でその障害を克服していたから)。脳神経回路の障害で、外見からはまったく見えない上、月華の場合はむしろ好ましいほうに症状が出てしまったので、大変わかりにくい状態でした。好ましい方向に症状が出たとは言っても、悪影響が無いわけでは絶対無いので、二十歳を越えるまで「自己像の確定」に苦しみ続けました。
自分の中では一貫した行動しかとっていないはずなのに、正反対の評価を下されることなんて日常茶飯事。時と場合によって、同じ行動をしていてもまったく違う評価をされ、しかもそれについて一貫性が無いわけですから、自分はデキル子なのかデキナイ子のか、非常に毎日が不安定でした。
今にして思えば、客観的に考えれば自分の行動が一貫性無く突拍子無かったよな、と思うわけですが、自覚が無いときはそれがわかりません。
結局、大人になってからそういう障害というものが存在していたんだ、と知り、そこから急速にまともに近づいたわけです。もちろん、それまでにも分からないなりに適応してきたわけですが、微妙に分かっていないのでちょっととんちんかんな部分が残っていたはずです。
執事とは、そういうとんちんかんな部分を消すことにある程度成功してからの出会いですから、以前の月華がひどい評価を受けていたことを聞いても信じられないでしょね。実際、ちょっとそういう話をしたことがありますが、信じてもらえませんでしたし(笑)。
と、言いつつも、おそらくはまだ障害の悪影響が残っていた状態でも、執事は月華を主と選び慕ってくれたのではと思います。
なんかえらい自信過剰ぶりですが、そういうわけではありません。
仕事の評価、表向きは普通に振舞う技術、そういうものは執事や月華のパーソナリティのうちほんの数パーセント、つまり世渡りをする上で必要な仮面の部分のみだと思うのです。
執事のことは分かりませんが、少なくとも自分のことについてはよく分かります。外面上普通に振舞うことができて、普通の評価を得ているからといって、本質にある障害が治っているのでしょうか?答えはNoです。それはいやおうなく自分に突きつけられている事実です。表面は消えていても、本質には厳然として残っているのです。
こういう関係で、今までに書いてきたようなさまざまなトラブルを乗り越えている中では、いわゆる「世渡り部分」のみだけで付き合えるものではありません。本質を深くえぐるようなことをお互いにして、だからこそ傷ついたし救われたし、そういう付き合いの仕方をしてきたはずです。あの中で、執事はいやおう無く月華の障害部分に翻弄されたはずですので、それが嫌なら、今、執事という存在は居ないでしょう。
とんでもない月華の本質のとっちらかりっぷりを分かって今も居てくれるということは、表面が取り繕えていなくたって、結局はこうなるんだと、そう思えるのです。自信があるわけじゃないです。
月華が執事を執事だと思ったのは、表面的な評価の故ではありません。
何年にもわたって繰り返してきたやり取りの中でつかんだ「執事の本質というもの」、それに共鳴したからであって、究極のことを言えば、人がどう執事を評価するかなんて、執事を執事とすることにおいてはどうでもいいことなのです。
ただ、執事の本質が正しく世渡り部分の表面に投影されれば、本質にふさわしい高い評価を得るだろうな、と確信はしていますが、相手や状況などの条件にもよるので期待はしすぎていない、というのが妥当な説明だと思います。
月華は、常に一定しない評価に振り回されてきたせいで、普通の人に比べると自分に下される評価について鈍感だったんだな、と今回の件で気が付きました。
もっと早く、人の評価なんてどうでもよくて、月華にとっては執事の本質こそが一番大事なんだということを言っておかなければいけなかったなと反省しています。
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