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ちょっと前に、下僕のブログに『「S女」を抱くこと』についてのエントリーがあがって、ほんの少し前にそのエントリーについてコメントがついていた。
男女の関係が対等なら、S女性とM男性の性交渉はS男性とM女性の性交渉と同じもののはずなのに、というそのコメントにはいちいちうなずかざるを得ません。
男女の関係が対等なら、S女性とM男性の性交渉はS男性とM女性の性交渉と同じもののはずなのに、というそのコメントにはいちいちうなずかざるを得ません。
今の世の中、女性同権だのなんだのとはいっても、性においてはまだどうしてもキリスト教的父権ジェンダーがスタンダードだと思う(日本の貞操観念なんて、西洋思想を国家的に移植した明治以降に発達したものだ。まぁ武家社会だけは嫡子の問題で貞操観念があったけど)。
つまり、性交渉は生殖の為のもの。父系を保つ為に女性は男性の支配に入ること。
このような貞操観念の元では、性交渉を持つと言うことは、その男性の支配下に入りますよという暗黙の了解を示すこととなる。
というようなジェンダーの下に成長し生活すれば、性交渉はどうしたって、男にとっては「抱く/屈服させる」女にとっては「抱かれる/屈服させられる」ものになる。このジェンダーから離れられないものにとっては、M男性とS女性の性交渉は強力な禁忌となるのだろう。
というより、むしろそのジェンダーに囚われるがゆえにMになる男性も見かけることがある。つまり、普段は自分が押さえつけている部下の女の子に責められる、というファンタジーがある。下敷きには「男性は女性の上位」という揺るぎのない認識があり、まさに女性蔑視の上に成り立つ女性上位SMの典型だろう。このタイプがS女性との性交渉を忌避する傾向にあるように思う。
それを悪い、と糾弾したいわけではない。
それが性的快感に繋がるのならそれを追求するべきだとさえ思う。
ただ、そのジェンダーからフリーであるがゆえに、性交渉を禁忌と思わないわたしたちのようなSMの形だってある。
月華にとって、下僕を責めることと下僕の身体を体内に導くことは等しい。いわゆる「SMプレイ」は前戯でもないし、性交渉は攻守の交代でもない。
ジェンダーの影響を強く受ける通常の性交渉ではどうしても身体を開かなかったが、SMというツールを知り、ジェンダーから開放された部分での快楽を知ってはじめて、性交渉で身体を開くことができた。SMはジェンダーから解放されるための(乗り越えるものではなく)ツールだったのかもしれない。
つまり、性交渉は生殖の為のもの。父系を保つ為に女性は男性の支配に入ること。
このような貞操観念の元では、性交渉を持つと言うことは、その男性の支配下に入りますよという暗黙の了解を示すこととなる。
というようなジェンダーの下に成長し生活すれば、性交渉はどうしたって、男にとっては「抱く/屈服させる」女にとっては「抱かれる/屈服させられる」ものになる。このジェンダーから離れられないものにとっては、M男性とS女性の性交渉は強力な禁忌となるのだろう。
というより、むしろそのジェンダーに囚われるがゆえにMになる男性も見かけることがある。つまり、普段は自分が押さえつけている部下の女の子に責められる、というファンタジーがある。下敷きには「男性は女性の上位」という揺るぎのない認識があり、まさに女性蔑視の上に成り立つ女性上位SMの典型だろう。このタイプがS女性との性交渉を忌避する傾向にあるように思う。
それを悪い、と糾弾したいわけではない。
それが性的快感に繋がるのならそれを追求するべきだとさえ思う。
ただ、そのジェンダーからフリーであるがゆえに、性交渉を禁忌と思わないわたしたちのようなSMの形だってある。
月華にとって、下僕を責めることと下僕の身体を体内に導くことは等しい。いわゆる「SMプレイ」は前戯でもないし、性交渉は攻守の交代でもない。
ジェンダーの影響を強く受ける通常の性交渉ではどうしても身体を開かなかったが、SMというツールを知り、ジェンダーから開放された部分での快楽を知ってはじめて、性交渉で身体を開くことができた。SMはジェンダーから解放されるための(乗り越えるものではなく)ツールだったのかもしれない。
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